こんな
金山衆が活躍した金山が、山梨や奥秩父にはごろごろしています。
金はこの世の完成物で、だからこそ尊い。それで金持ちになる、という目的ではなく神の象徴を探すという目的で採取が長いこと行われ、その都度、灰吹き法(後にアマルガム法)で精錬された実に膨大な露金と呼ばれる金が採掘坑道の中に再び埋められたと推測できる。
事実、古い坑道から露金が相当に発見されてもいる。(西欧の錬金術でも、金を得るためには採取した金の大半を捨てねばならぬ、とされている)
金山とされている山の付近には行者が入っていたと思しき沢がいたるところにあり、そういったところでは、記録にさえ残っていない相当に
古いズリの形跡が発見できるし、金の鉱石も入手できたりする。
(西丹沢・・・道志の森からほどちかい城ヶ尾峠のさらに西にも武田の隠し金山が地震で埋没したままになっている。ここは“おいらん淵”に匹敵するほどの賑わいがあったが、その人々も土砂の下敷きになったまま・・・こんなことを書くとすぐに幽霊スポットになりそうではあるけれど、簡単には入れぬ場所だから当面はだいじょうぶだろう ^^; )
で、こんな話をしていると、友人のKが奥秩父の沢に入りたい、と目を輝かせた。Kは山初心者で、沢も丹沢のモミソ沢しか経験がない。ズリを見つける沢登りは薮と切立った斜面の連続で、辛いばかりでまったく面白くない。
いろいろ話すうちに、沢に慣れるために登攀(クライミング)気分を味わえる気持ちの良い沢がいい、ということに。
それが奥秩父の笛吹川流域にある、
ヌク沢・左俣。水平距離にして約3500メートル。標高差は1200メートルほど。沢に入って、源流部まで、Kであれば7時間~8時間あれば到達できると目算し、決定。この沢には、フィナーレとして100メートルの幻の滝とよばれる大滝が待ち構える。ここを登るとき、途中からの眺望は素晴らしいものがある。もちろん技術的な難所はないので初心者でも登れる。
さて、当日。5メートルの二段の滝、6メートルの滝、5メートルのナメ滝・・・と、Kは調子よく登っていた。そして途中の枝沢を注意深く選別し、右に左に右に・・・と遡行を続ける。そうするうちに、沢特有の痺れるような冷たい水を浴び続けたのと、慣れない地下足袋&ワラジという足元のためなのか、Kは小休憩を頻繁にリクエストするようになった。
水を浴びて滝を越えては休み、しばらく岩場を歩いては休む。こうしてどんどんペースは落ちた。
朝6時に遡行を開始して、予定では午後2時半過ぎには稜線に出ると算段している。天候は薄曇り。気圧配置の関係で、夕方には雷雨があるかもしれない。できれば早めに沢を抜けて尾根の斜面に取り付きたい。
結局、大滝手前の7メートルの滝に至ったのは昼過ぎだった。水の落ちる滝を登るのは、普通のクライミングに較べても骨が折れる。このとき濡れた岩を登るKの足がミシンを踏むように震えていた。僕はザイルを用意し、Kのハーネスに結ばせた。
この7メートルの滝を越えると
260メートルの大滝が眼前に姿を見せる。クライマックスだ。小滝を越えて姿を見せたKは、一瞬唖然とした。
「・・・すごい!これ登るの?ほんとに?!」
普通に沢を登る人であれば、この大滝はノーザイルでも余裕で登れる。しかしKはすでに疲労が見えるうえに、危なっかしい。そのためザイルを結ばせ、僕がトップで適当なところまで登り、確保してから登らせた。
ちょうど
50メートルあたりの場所に、岸壁の左側(右岸)から水流を横切って右側(左岸)へトラバース(横移動)しなければならない場所がある。Kはここで相当に手間取った。僕は、万が一落ちても必ず確保しているから怖がらないように・・・と何度も促しようやく到達し小休止。
ここを登るさいに、絶対に背後と下を見ないこと、と執拗に言ってきた。それは恐怖を感じさせないためばかりでなく、この小休止でKを驚かせようとしたためだった。
この20センチほどの岩の出っ張り(小さなテラス)で僕らはザイルを岩にビレイ(固定)し背後を振り返った。
「おお!・・・うわぁ!」
心底嬉しそうなKの歓声だった。高度に慣れていないKは下を見ると、不安そうな顔をするが、しかし真正面に見える富士山の威容と遥か彼方に続く下界の光景に久しぶりの笑み。
Kに異変が起きたのは、この滝を越え、小雨がぱらつきはじめた頃・・・
沢が伏流となる源流近くまで詰めてから右の尾根に取り付こうと思っていたが、Kがその途中で右に上がろう、と険しい顔で訴える。顔がやや青白く見え、表情が別人のようだった。
K「そこ、そこのザレ場からあの尾根に・・・」
僕「だめだよ。もうすこし沢を詰めないと、尾根までは樹林帯の薮コギでシンドイだけだよ」
K「でも、そこから登ろう・・・あそこから登りたい・・・」
執拗に食い下がるKに僕はついに折れ、横の土が露呈し崩れかかっている斜面に取り付いた。Kは先頭にたって懸命に登る。背後の僕の耳にはKの獣のような喘ぎ声。そして何かに憑かれたように闇雲に登る
異様な背中が見えた。
そして深い樹林に入ると
小さな羽虫が真っ黒な霞のように顔の周りに群がってきた。息をすると鼻や口に飛び込むし、目にも入る。僕はたまらず虫除けのスプレーを頭に噴射した。Kにもスプレーしようとするが、Kは狂ったように小枝を掻き分け樹林帯を上へと進み続ける。
そのうちにおかしなことに気付いた。Kの進路が上ではなく、右側へと逸れ始めている。
「おい、そっちに行ったら登山道に出られない」
この言葉にも無言のKに腹が立ち、僕はKのザックを背後からつかんで引き倒した。Kは倒れたまま、荒い息で「うー・・・」と唸っている。
僕は仕方なくKの横に座るとタバコを吸った。羽虫はスプレーには抵抗力があるようだが、タバコの煙で霧散した。それを知った僕は、虫の群がるKの顔に煙を吹きつけた。案の定、虫は逃げ散った。足元を見ると、濡れた地下足袋とワラジは泥まみれになっている。
しばらくすると、Kが目を開けて僕の顔を見ている。
僕「?」
K「一本もらってもいいかな?」
Kは地面に尻をついたまま、しばらくタバコをくゆらせていた。そして呟いた一言は「
夢見てたかもしれない・・・」だ。冗談じゃない。こんなところで勝手に夢を見られて、夢のルートの巻き添えになるなんて御免だ。そうは思ったが、僕はただ「
もう歩ける?」とだけ聞いた。
その後、再び密生する
ツガ系の暗い枝をかきわけつつ、つらい薮コギの後、ついに登山道に飛び出した。そのとき、ちょうど登山道を歩いていた
オバサン登山グループが驚きの小さな声を上げた。きっと熊と思ったのだろう。
そしてこの登山道でKに異変。
Kの足取りは、ゆらゆらと蛇行し、まるで
夢遊病患者だった。ゆらゆらと左右に蛇行し、そして立ち止まる、そして再びゆらゆら・・・横に回ってみれば、Kは顔をうな垂れて下を見たまま。おい、と声をかけて揺すってもその目は虚ろで寝ているようにも見える。
これは明らかに意識が飛んでいる・・・そう思った瞬間、Kは足元の倒木に腰かけてしまった。ザックを背負ったまま寝たように動かない。僕はKの背からザックを降ろし、ちょっと待ってて、と声をかけ、登山道を走った。
ものの10分もはしると、一軒の避難小屋がある。思い扉を開けて誰もいないのを確認するとそこにザックを置き、再び走って戻り、Kのザックを背負って、いっしょに小屋へ。今日はここで一泊することにした。
その晩Kは、夕食を作る僕の横で寝ていた。そして、何やら話し始めた。
「ああ横浜?うん、いま勝ってるよ・・・」
誰と話しているのやら(笑)横浜ファンのKらしい寝言だった。そして夕食に起して、食事とお茶を飲みながらその話をすると、「恥ずかしいとこ見られちゃったなぁ」とKは笑った。
その日の深夜のこと。
ぼそぼそと人の話し声に目が覚めた。Kの声だった。
「そこの尾根で・・・迷った・・・ずーっと迷って・・・道がない・・・降りて来てよ・・・おねがいだから・・・降りて来て・・・降りてきてよ・・・」
なんだよ、気味悪いな・・・と思い、僕はKに背を向けた。
僕らは小屋の奥の板の間に居た。一番奥にK。そのKに背を向けた僕の目には、真っ暗な土間の向こうの、大きな入り口の扉が目に入る。そこに灰色っぽい煙のようなもやもやが、見えた。
あ、煙?と思ったのもつかのま、なんだかそれが、輪郭の定まらない人のように見えた。
しかし、唯一の窓は木戸でぴたり閉ざし、月の光すら差し込まぬ闇の中、何かが見えるわけもない。目覚めたばかりで目やにが眼球について、白っぽくぼやけて見えることがある。僕はそれかもしれないと思ったが・・・このとき背筋に嫌な寒気が走った。
「降りてきて・・・・降りてきて・・・ああ・・・寒い・・・」
奥秩父の山中の夜は夏でも冷える。そのKの言葉に、シュラフに寝ているのに、とふと思った。そう思いつつ、Kの寝言がKの言葉のようには聞こえなかった。
なんだかその言葉が、まるでその
灰色の煙が話しているように聞こえてきた。いやだなぁ・・・僕はとっさにシュラフを顔まで被り、ぎゅっと顔の出ている部分を紐で絞って、中で息を殺した。
そういえば、尾根が見えたあたりからKの様子は変だった・・・それは疲れていたからかもしれないけれど・・・目の焦点があわないというか、生気が抜けたとでもいうか・・・あの大滝で何かが憑いたのかな・・・とそんなことを思った瞬間。
「
へへ・・・」と、背後でKが笑ったのが聞こえた。
こういう偶然の符合って、なんだか、すごく怖い。自己暗示にかかったせいか、K以外の何かの気配を感じ始めてしまった。その気配のようなものは、土間のほうから近づいて、今や板の間に上がり、シュラフに潜り込む僕の目の前にあった。
背筋に冷たいものを感じつつ、幸いにも疲れのためいつしか眠ってしまっていたようで、ガタンという戸口の開く大きな音に目が覚めた。
そこに仁王立ちになる黒い何者かの姿が目に入った。
一瞬、白い煙のようなものと、その影が重なって見えた。時間の感覚がなく、思わず声を出しそうになったが、それよりも早く「おはようございます」という声が聞こえた。
まぶしい朝の光を背後に立つ、登山者のようだった。彼は土間に脱いだ僕らのぼろぼろのワラジを見ると「
沢ですか」と元気な声でたずねてきた。この後、彼と朝食を共にし、登山靴を履こうと入り口の土間を見ると、隅のちょうど
四十センチ四方が黒々と濡れていた。
その位置は、たしかに昨晩、灰色の煙のような
何かが立っていた場所だったかな、とふと思った。入り口の隙間から入った夜の冷気が、そこを濡らしたんだ、と思ってはみたが、どうもこの得体の知れない怖さは今でも残っている。
下山の途中、昨日さ・・・とKに寝言の事を話してみた。食事と睡眠で元気を取り戻したKは、なにも覚えていなかった。
人は自己催眠にかかりやすいという。もしかしたら、偶然の状況が重なって、知らずうちに僕は自己暗示状態に陥っていたのかもしれない。
しかし、万が一、この山域で行方不明になっている登山者がいたのかどうか。それは確認していない。もしも、居るのだとすれば、そしてKの寝言を真に受けるとすれば・・・目の前のヌク沢へ切れ落ちる斜面の下に、その人は今も居るのかもしれない。
斜面の中ほどの笹薮の中に、数少ない水場がある。地図を頼りにその水場へ降りていく人は、少なくは無いはず。何かの拍子での事故や、濃霧の際の道迷いも、可能性としては皆無とはいえないだろう。
この後、現在のアウトドアクラブの仲間とヌク沢へ一度入ったが、そのときはどこをどう間違えたのか、途中で枝沢に誘い込まれて別の険しい尾根に出てしまった。以来、この沢へは入っていない。
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