山中の墓

ユウ_zetterlund

2008年07月04日 16:08



= 怪談CLUB 其の十三 =
山中の墓


これは「山岳奇譚・怪談CLUB」になるのか、はたまた「記憶のかけら」にすれば良いのかを、しばらく迷った末に「怪談CLUB」のカテゴリーにすることにしました。

そのむかし、山は異界であった、という話を聞いたことがあります。元来、修験の者とは異界である山中で験を収めたる者であり、春になると山中より神とともに里に降り、田畑に実りをもたらし、また秋になると山ごもりのために神を伴い奥山に向かったのだと云う。この世は廻り、生命も季節も廻り、神もまた廻る。山は神が帰る場所であり、また、記紀によれば神々が降り立つ場所でもある。

そういえば北アルプスには高天原という場所がある。ここを訪れるたびに、こんなに素晴らしい場所が日本にはあったのか、と夢見心地にさせられてしまう。この近くにはアルペン気分で入れる無料の高天原温泉がある。日本で最高所にある温泉といえば登山者に愛される「みくりが池温泉」。そして最高所にある源泉といえば標高2300mに湧く地獄谷温泉。ちょっと前の記事で紹介した剣岳の雷鳥沢の温泉です。

話が逸れましたが、高天原という名称もあるように山は異界であった、というようなお話をひとつ。場所は丹沢。登山道のない木々生い茂る尾根や谷をガサガサと熊のように歩き回っているときのこと。あたりの潅木が太くなり、そこかしこの斜面に巨大な岩が露呈した場所に出た。丹沢は不思議な場所で、登山道の谷側斜面の藪を降りると、そこに大きく整った溝が尾根に沿って続いていたりする場所がある。いろいろな城跡を踏破した方ならぴんと来るかもしれないが、おそらくこの溝は空堀の痕跡だ。

この予感を裏付けるように、めぼしを付けて生い茂る藪を割ってみると、草木がまったく生えていない平坦な場所が姿を現す。そこから斜面を這い上がると、同じような平坦な場所があちこちに埋もれている。これは城郭に見る、まさに曲輪(くるわ)。しかし城の記録などどの資料にもみあたらないから不思議だ。空堀のところどころには四角く切られた大きな石が積まれ、ある場所では階段状になっていたりもする・・・
そんな中にひときわ巨大な、軽自動車ほどのサイコロ状の岩が空堀の左右に置かれ、その上には左右同様に、四角い穴が穿たれていた。もしかしたら、ここに城柵のようなものが設けられていた痕跡ではないのか、と思ってしまう。戦国あたりの記録に残っていないということは、もっと古い時代の山城だったかもしれない。

このあたりの神話では、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の折、ヤビツ峠あたりでこの地の勢力に火攻めをされて苦戦している記述がある。彼はなぜこんな山中に軍を進めたのだろう。もしや、この塔の岳、二の塔、三の塔などは古代の軍事要塞だったのかもしれない。そう考えれば、丹沢に異様に多い「丸」という地名も説明できる。古代朝鮮語で丸とは山である、という説もあるが、それではまったく面白くない。

このように、丹沢のあちらこちらには実に不可解なことが渦巻いている。この時も、巨大な岩が露呈した小さな広場のような場所に出くわし、また何か面白そうなことがありそうだ、とワクワクした。アメリカ人のK氏もあたりを見回していたが「あ・・・」と言いながら岩の裏側の方に歩いていった。彼は「ボール!」と言いながら薄汚れた丸いものを手に戻ってきた。

それを見て、僕は“うわぁ・・・・”と思った。茶色く変色し、コケのようなものがついた、昔の糸を巻いた手毬だった。切れた糸がブラブラと乱れ髪のようにぶらさがっている。こんなところになぜ子供が遊ぶような手毬があったのか・・・僕が気味悪さに顔をしかめると、Kは手毬を放り捨ててしまった。

ばさっばさばさ・・・

手毬は落ち葉の中を転がって、見えなくなった。僕らは嫌な気持ちのまま、尾根に出ようと岩横の斜面を登りはじめた。深い落ち葉の下は岩石があるようで、その凸凹に何度も足を捻ってしまった。“登りにくいな”と思い間もなくのこと、すぐ上の落ち葉の陰にとんでもないものを見てしまったのだ。それは、見渡す限りのおびただしい数の倒壊した墓や仏像だった。まさか!と思い、自分の足元の落ち葉を掘り返してみると・・・!

岩石だとばかり思っていたのは、実は全て墓だったのだ。「墓だ!」そう思って周囲を丹念に見渡すと、そこにも、ここにも、あそこにも・・・落ち葉の間から倒壊し苔むした大小の墓石や仏像の群れ。こんな道も無い場所に、なんでこんなものがあるのか、まったくわからなかった。

すぐ横の岩に手をついた。何やら赤い色が見えた。ふかふかするコケをむしりとってみた。なんと、中から現れ出たのは主で描かれた“南無阿弥陀仏”の文字だった。そして、岩の穴に気付いた。中は真っ暗だった。そこを覗き込んでみると、中の広い空間に、水晶石が生えるように、びっしりと墓石が隙間無く並んでいるではないか。岩穴の床には湧水がたまっているらしく、遠くから涼やかに水滴が落水する音が幾重にも響いている。

そのまま回り込んでみると、反対側にまともな墓石があった。ちゃんと立っているのは、この数基だけだった。相当に古く、しかし立派なたたずまいは、一般人のものとは明らかに違う。岩の表面のほとんどは風化によってボロボロになってしまっているが、確かに苗字が記された痕跡があった。いつの時代なんだろう・・・いちばん隅の比較的新しそうな墓石を調べるてみた。

宝永・・・たしかにそう読める。宝永五年、と彫りこまれていた。宝永といえば江戸時代。1700年頃の時代だ。つまり今から300年近くも前の墓ということだった。小さいながらも家紋のようなものも掘り込まれているから、やはり武士だったのだろう。しかし、このあたりは深い山。部落も家の一軒も存在していない。Kといろいろ推測を話しているとき、電気が走るように、何かが視覚に輝いたように思えた。それは物理的に網膜を通して見えるものではなく、脳の中?からわきあがり、パッと目の前に像を結んだような、そんな不思議な感覚だった。輝く一瞬のこと、ヒュバッ、というような、耳元を鋭い何かがかするような、ぞっとするような音が過ぎった。

Kはビクリ、としてあたりを見回していた。「何かが居る。ここを逃げよう」Kはそういうと僕の先に立って、来たルートを引き返し始めた。ルートには逸品クラブで記事にした「ヨーロッパのカラートイレットペーパー」をマーキングしてある。二時間ほど丹沢山中の谷や尾根を歩き、ようやく登山道に出た。閃光は、あきらかに刀が振り抜かれたような冷たい感覚だった。深山ではないけれど、たしかに山は異界なのかもしれない。
登山道のない場所を歩いていると、ほんとうにいろいろなことがあります。岩壁に洞窟のようなものがあり、中を見てみると朽ちた経机に風化した着物のようなものがあり、下には灯火で使用したと思われる油皿のようなものが落ちていた、ということもあります。

山梨県のおいらん淵の対岸の岩壁にも、このような洞窟らしき穴が観察できます。いちど探検しようと考えたこともあったのですが、おいらん淵を泳ぎわたるのは辛いので先延ばしにしています。あるいは対岸の奥から樹林を藪コギしてアプローチするか・・・埋蔵金伝説のあるエリアだけに興味深いものがあります。

覚書:宝永初期:元禄地震と富士山の大噴火


1703年12月31日に、マグニチュード7.9~8.2と推定される元禄大地震が発生。これによって三浦半島と房総半島の一部が隆起。小田原の推定震度は7。小田原城天守閣は倒壊・炎上するなど甚大な被害。
さらに1707年10月28日。日本最大の地震と言われる宝永大地震が発生。マグニチュードは推定8.4~8.6、死者2800~20000人。関東から九州に津波。伊豆下田では5~7mの津波が襲来。
宝永大地震の余震が続く中、1707年12月16日朝10時頃、富士山が噴火。宝永大噴火と呼ばれる。江戸では火山灰が降り積もった。海老名・横浜は16cm。相模原は~16cm。御殿場では1m以上火山灰が積もり村は壊滅し、同じく丹沢でも谷が崩壊したり甚大な被害があった。


最後は、西丹沢の金鉱の話。鉱山民や鉱山民相手の客商売で賑わっていた、元来が武田の隠し金山が大地震によって、奥山の谷に百軒以上も軒を連ねた家屋や人々もろとも埋もれてしまった場所があります。そこは今もなお、崩れたままの状態。周囲には灰吹き・アマルガム法による金の精製跡と思われる場所や、猫流しなどと呼ばれる選別場の跡と思われる場所などが見て取れます。場所は道志の森から藪山歩きで行くことができます。道はありません。


  


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